労働組合

組合の歴史|日本の労働運動史

誕生~凋落

明治維新以後、政府は「富国強兵」「文明開化」をスローガンに、西欧諸国に「追いつき、追い越せ」の国民運動を展開しました。また、日清戦争(明治27〜28年)を経て、日本も産業革命を迎え、工場も増え、労働者の数も増えてきました。しかし、こうした初期の労働者の大半は年少の女性労働者でした。ほとんどの工場では、労働時間は12時間(午前9時に15分、正午30分、午後3時に15分が休憩時間)で、昼夜2交代制でした。このような過酷な労働条件と生活苦に労働者はあえいでいたのです。
こうしたなかで、明治30年、先覚的な労働者や知識人たちにより「職工義友会」が作られ、「日本組合期成会」に発展していきました。その後、大正元年に作られていた「友愛会」が「日本労働総同盟」と改称しましたが、階級闘争を主張する左派と、現実主義を主張する右派が対立し、大正14年に分裂。その後「日本労働組合評議会」が結成されました。しかし、組合活動に対する政府の弾圧は創成期から厳しいものがあり、日本が満州事変(昭和6年)、日中戦争(昭和12年)、太平洋戦争(昭和16年)と戦争への道をたどるなかで、労働組合は弾圧と分裂で壊滅してしまいました。

戦後~連合誕生

昭和20(1945)年8月15日、日本は敗戦を迎えるなかで明治憲法は廃止され、国民主権、基本的人権の尊重など自由と民主主義を内容とする新しい憲法が制定されました。そのなかで、労働組合を作る権利(団結権)、交渉する権利(団体交渉権)、スト等を行う権利(争議権)も保障されました。
戦後、ゼロから出発した労働運動は、わずか1年にして総同盟(日本労働組合総同盟)、産別会議(全日本産業別労働組合会議)の2大全国中央組織が結成され、21年末には368万人の労働者が組合組織に加入しました。
22年には、全官公共闘と総同盟、産別会議、民間労組を含めた400万人の全労働者で組織する「全闘」が結成されました。全闘は22年2月1日を期して全国一斉にゼネストを行うとする「2・1ゼネスト宣言」を発表しました。しかし、このゼネストはマッカーサー連合国司令官の命令により中止されました。(23年7月には、マッカーサー書簡により官公庁職員のストライキ権は禁止されました。)更に全闘も解散を命じられましたが、その組織を存続すべく22年3月に総同盟、産別会議、日労会議等により「全労連」(全国労働者連絡会議)が25単産、約450万人の労働者が参加して結成されました。しかし、25年には連合国軍により全労連は解散させられ、すでに脱退していた総同盟(39年に同盟を結成)、産別会議、同年7月に結成された総評、31年に結成された中立労連の、いわゆる「労働4団体」の時代を迎えました。
労働組合も、経済成長に対応して「ヨーロッパ並みの賃金」「近代工業国にふさわしい賃金」を要求し、31年春から官民労組が一体となった「春闘」という統一闘争が開始されました。
以降、分裂状態にある労働戦線統一のためにさまざまな試みが行われました。そして45年の「労働戦線統一世話人会」、47年の「労働戦線統一民間単産連絡会議」、51年の「政策推進労組会議」57年の「全日本民間労働組合協議会」(全民労協)を経て、62年11月20日、正式加盟単産55、約540万人のナショナルセンター民間「連合」が結成されました。この後、これに総評、官公労組の組織が平成元年に加入し、78組織、約800万人の新「連合」ができ、現在に至っています。

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